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本能寺「三コウ」 

「そちは まことの名人なり」

江戸時代、囲碁界は幕府の家元制度にあり、一世本因坊算砂(日海)は織田信長からそう賞賛された。それに由来し、あらゆる分野で「名人」という言葉が使われるようになったと云われている。





そのほう、名はなんと申す。

信長とコウ

はい、劫(コウ)にございます。

ほう、劫か・・・姉はセキとハマじゃったな? 戦国の世を生きる女として相応しい名じゃ。劫が三人でなくて、ヨカッタぁ♪

はい?・・・・・

思うておるより時は早い。人生は短いぞ!


天正十年六月一日、本能寺の変前夜、織田信長は本能寺にて、寂光寺本因坊の僧侶・日海(初代本因坊・算砂)と利玄坊との一局を観戦した。熱戦は深夜にまで及び結局、珍しい三劫となって引き分けとなった。日海はめったに出来ない三劫を不思議に思い本能寺を去ったと云う。

そして、翌未明・・・

明智光秀の謀反により信長は自害に追い込まれ、本能寺は焼失した。以来「三劫」は不吉の前兆とも言われるようになった。

果たして、このエピソードは事実なのか!?

2008年6月17日、朝日新聞・夕刊に掲載された記事をたまたま切り取ってスクラップしていたので抜粋してみたい。

sankou.jpg

「三コウ伝承」には、もともと疑念の声があった。研究家によると

①本能寺の変から120年以上たった「伝信録」には算砂と信長の関係が全く書かれていない。

②180年後の「名人碁伝」には算砂が本能寺を訪れたことが記されている。

③280年以上たった「爛柯堂棋話」になって、「本因坊(算砂)と利玄坊の囲碁を御覧あるに、その碁に三劫というもの出来て止む。拝見の衆、奇異なることと思いける」などと三劫の記述が現れた。信長・秀吉・家康が算砂に5子の手合いだったともある。

「信長公記」にも囲碁の記述はなく、公家の日記にも見当たらない。18、19世紀になって突然出てくるのはおかしい。

算砂は信長・秀吉・家康に愛顧され、信長が「名人」と賞賛したと伝えられるが、「信長、秀吉との関係は確実な資料に基づいておらず、すべて虚構」と主張する。

秀吉については、天正16年に算砂に出したとされる朱印状の写しが「伝言録」にある。だが扶持(ふち)の給付や碁の法度について記述されたその朱印状の写しを「偽書」と指摘する。それ以前に朱印状の記録は無く、文言にも不自然な点があったためと言う。

一方、秀吉研究で知られる名古屋大名誉教授は「囲碁に限らず、秀吉が特定の個人に権益を与えたなどという、信頼に足る資料は見当たりません。当時、権力者の名を借りた偽物はたくさん作られた。同時代に記録があるかが重要で、秀吉の死後100年もたっての写しでは確かに疑わしい」と語る。なお、算砂と秀吉が同じ場所で別の人と碁を打ったという記録ならば京都・相国寺鹿苑院院生の日記「鹿苑日録」にある。

家康は大名や豪商と碁を楽しむ一方で、本因坊ら四つの家元や「御城碁」創設の基盤を築いた。だが、囲碁が隆盛期を迎える江戸時代に「虚構を生んだ」背景があるのではないか。

家元が競い合う時代にあって、本因坊家に箔をつけようと作り話を書いたのではないか。それに色んなものが付け加えられて現代に至ったと考えられている。

kou.jpg

あの日あの夜、そのような事実は本当に無かったのでしょうか? 私は、あって欲しいです!
これからも ずっと・・・



~三コウ無勝負~

互いに解消することができない劫が三つ生じ、延々と取り合う形になった場合は無勝負となる(将棋でいえば千日手)。現在、プロの対局での三コウ発生率は九千局に一度といわれている。


[ 2011/02 ] 囲碁の話 | コメント(-)








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